渡瀬謙のプロフィール

公式プロフィール

渡瀬 謙(わたせ・けん)

サイレントセールストレーナー / 有限会社ピクトワークス 代表取締役

1962年、神奈川県生まれ。小さい頃から極度の人見知りで、小中高校生時代もクラスで一番無口な性格。明治大学卒後、一部上場の精密機器メーカーに営業職として入社。その後、(株)リクルートに転職。社内でも異色な無口な営業スタイルで入社10カ月目で営業達成率全国トップになる。94年に有限会社ピクトワークスを設立。広告や雑誌制作などを中心にクリエイティブ全般に携わる。その後、事業を営業マン教育の分野にシフト。内向型で売れずに悩む営業マンの育成を専門に、「サイレントセールストレーナー」として、全国でセミナーや講演などを行って現在に至る。

主な著書に『内向型営業マンの売り方にはコツがある』(大和出版)、『「しゃべらない営業」の技術』(PHP研究所)、『相手が思わず本音をしゃべり出す「3つの質問」』(日本経済新聞出版)、など多数。

 

非公式プロフィール

◆幼少期から超口下手で上がり症だった

以下は、恥ずかしくてずっと長いこと隠してきた私の裏のプロフィールについてお話しをしていきます。
ちょっと長いので時間があるときにでもお読みください。

私は物心ついたころから、他人と接することがうまくできない子供でした。家の近くを歩いているとき、隣の家のおばさんに「元気?」などと話しかけられても、何も答えられずに黙って通り過ぎていました。どう返事をしていいのかわからなかったのです。
どんなに顔見知りでも、他人と話そうとするたびに緊張してあがってしまい、すぐに顔が真っ赤になって全身に大汗をかいてしまいます。子供ながらにそれはとても恥ずかしいことだと思っていました。
口下手、人見知り、上がり症など、内向型の特徴をほとんど持ち合わせていたのです。当時はこんな言葉はありませんでしたが、まさに「コミュ障(コミュニケーション障害)」の典型でした。人前に出たり目立つ行動を避けるようになり、近所の森や川に行ってひとりで過ごすことが多かったです。

コミュニケーションが苦手で、先生にも親にも「この子は将来まともに就職できるのだろうか」といつも心配されていました。そしてそれは私自身が一番不安なことでした。
なんとか現状を変えようと自分なりに頑張ってはみましたが、どうしてもうまくできません。そんな自分が情けなくて嫌いでした。それは高校卒業まで続きました。

◆闘病生活でさらに人付き合いが苦手に

高校時代は、もうひとつ挫折経験がありました。高2から高3にかけて、ちょうど100日間入院していたのです。病名はネフローゼ。腎臓疾患のひとつでした。絶対安静と食事制限があり、退院後も通常の学生生活ができませんでした。少しでも無理をすると再発する危険性があったからです。体育はすべて見学、放課後もまっすぐ家に帰るだけの日々。年に一度の体育祭のときも、盛り上がっているクラスメイトをしり目にしながら、私は黙って帰りました。そうしてさらに人づきあいが悪くなっていきました。

一浪して入った大学も、まだ過度な運動ができない状態だったので、みんなと遊びに行くよりは家で寝ながら本を読んでいることが多い生活でした。人と接しない代わりに、年間200冊ほどの読書経験は、今になってみると私の知識の源になってくれました。
そうしてのんびりと学生生活を送っていましたが、ひとつ大きな誤算がありました。それは、商学部を選んでしまったこと。就職活動をするにあたって、求人のほとんどが「営業」だったのです。まともに人づきあいができない私が営業などできるわけがありません。最初のうちはなんとか営業以外の職業を探そうとしていましたが、これといってやりたいこともなかった私は、結局まわりに流されるように営業になりました。

◆商品説明会で言葉につまってトラウマに

それでもバリバリの営業会社だけは避けて、地味目の精密機器メーカーに入社しました。当然ながら営業部への配属です。自信はありませんでしたが、大人になれば自然に話せるようになるだろうと楽観的に考えていました。
普段の仕事は、代理店へのPR活動が主だったので、それほど過酷な営業ではなかったのが救いでした。ただそれでも対人の仕事は私にとってはキツイものでした。

あるとき、お客さまを集めて商品説明会を行うことになりました。営業はそれぞれパート分けされて、自分の担当の商品をみんなの前で発表するのです。私は尻込みしましたが、半強制的にやらされることに……。「まあ、ほんの10分程度だし、セリフを丸暗記していけばなんとかなるだろう」そう思って当日に臨みました。甘い考えでした。
順番がまわってきて演壇に立った私。目の前には30人ほどのお客さまが黙ってこちらを見ています。記憶してきたセリフを早回しで再生するように、私は一気にしゃべり始めました。とにかく早く終わらせたいという一心でした。

すると、慣れない場で緊張していたのでしょう。途中でセリフを度忘れしてしまったのです。とたんに汗が出始めます。あせって思い出そうとするのですが、もがくほど思考が乱れます。そんな私の姿を見て、目の前のお客さまは苦笑い。それを見た私は頭が真っ白になり、黙って頭を下げてから中途半端のまま演壇を降りました。もうどんなに頑張っても無理だと思ったからです。もちろん上司には叱られましたが、どうしても続けることができませんでした。
やはり苦手なことは、大人になってもそう簡単にはできないことをあらためて知りました。それ以降、人前で話すことを一切避けて通るようになりました。

◆転職先はバリバリの営業会社、リクルート

その会社は4年目で辞めました。理由は製品への不信感です。とってもクレームの多い製品だったので、売れば売るほどクレーム処理係になっていました。それがかえってトラブルに対する耐力が強化され、営業力は向上しましたが……。いかんせん製品に愛着が持てず、本当に仲のいいお客さんには他社製品をすすめるありさま。このままこの会社にいても自分にも会社にもマイナスになると判断したのです。次の就職先も決めないまま退職しました。

「自分は営業には向いていない。でも本当の自分の実力ってどの程度なんだろう?」
これまで恐る恐るやっていた営業の仕事。それをこの先も続けるべきかで迷っていました。そもそも自分には営業力があるのかどうかもわかりません。
そこで、「自信を持って売れる商品を扱う営業をやってみたい」と友人に相談したところ、教えてくれたのがリクルートだったのです。試験と面接を受けたところ、合格になりました。

入社してまずおどろいたのは、メンバーの能力とやる気の高さでした。明るく元気で前向きな性格の人ばかり。前社とのギャップの大きさに戸惑い、最初はまったく売れないダメ営業マンでした。ずるずると6ヶ月売れない毎日。肩身の狭い思いをしていました。
「やっぱり自分には営業はムリだったのかな」と思い始めたときに、大きな転機が訪れました。

◆しゃべらない営業との出会いに衝撃を受ける

売れない私にリーダーが声をかけてくれました。そして営業同行に誘ってくれたのです。ただ、私は正直、あまりうれしくありませんでした。なぜならそのリーダーは、私とは真逆の性格だったからです。
明るくてしゃべりもうまいその人の営業を見せられても、自分には参考にならないだろう。そう思いましたが、一応ついて行くことにしました。

ところが実際に彼の営業を見せられて驚きました。普段とは違って静かなのです。盛り上げたり笑わせたりすることもありません。そしてさらに驚くことに、そんな営業でも売れるのです。
彼がやっていたのは、まさに「しゃべらない営業」でした。営業は、しゃべりのうまさや性格の明るさで売れるのではないという真実を知ったのです。
それを機会に、私は自分の営業スタイルを見つめ直して、自分の性格に無理をしない営業スタイルに変えたことで、売れるようになりました。そして入社して10ヶ月目にして全国営業達成率トップになりました。この成功体験は私にとって大きな自信になりました。このときの経験や手法が今の仕事につながることになるとは、当時は思ってもいなかったのです。

◆集団行動が苦手という自分の特性に気づく

売れる営業マンになれたことで、社内での居心地も良くなるかと思ったのですが、その後も一向に馴染めませんでした。そこで気づいたのです。成績が悪いから居づらいのではなくて、自分は集団行動が苦手だから会社組織にストレスを感じていたということに。

思い返せば、学生の頃もクラブ活動などに参加してもすぐにやめてしまったのは、長続きがしない性格というよりも、集団が嫌だったからだとわかると合点がいきます。ということは、この先どんな会社に就職しようとも、またやめることになるだろうと思いました。
そこで目を向けたのが、リクルートの社内に出入りしていたフリーランスの人たちです。カメラマン、コピーライター、デザイナー、イラストレーターなど、自分の能力でお客さんと対等に仕事ができる職業。子供の頃からひとりでいることのほうが好きな自分には、そんなフリーランスの仕事は魅力的に感じました。なによりもひとりでやる仕事ということで、自分にはこの道しかないと思ったのです。

そこでリクルートをやめたのちに、知人の制作会社に見習いというかたちでコピーライターの仕事を教わりました。このとき28歳。その後、再びリクルートで制作として1年間を過ごすなど、制作プロダクションを2~3社渡りながら、技術と経験を蓄えていきました。
その頃は、将来への不安よりも、会社勤めをしなくて済む未来に対して希望を抱いていました。

◆コピーライターとして独立したが、しかし……

その後、コピーライターとして独立。仕事の幅も徐々に広がっていき、32歳のときに有限会社ピクトワークスを設立しました。その頃はコピーライティングだけでなく、デザインや印刷などクリエイティブ関連をトータルに扱うようになっていました。ピーク時は月刊誌など数本をかかえてメンバーも10名ほどに増えました。見た目は順調に行っていましたが、私のなかではある疑問を抱きはじめてもいたのです。

仕事も回って会社としてはうまく行っていました。しかしふと気がつくと、私は営業とお金の計算ばかりしていたのです。あこがれのフリーな仕事はどうしたんだ?と自問する日々。それにそもそもひとりになりたくてこの仕事を選んだのに、オフィスには社員がたくさんいて、その人付き合いでもストレスを抱えているありさまでした。本当にこれでいいのかと悩み始めていました。
そんな私に追い打ちをかけるように、担当していた月刊誌が次々と廃刊・縮小となり経営が一気に苦境におちいりました。しかし、そこで自ら考案した手法により新規顧客を次々に開拓。ここでの新規開拓の経験が、のちに『TFTアポ取り法』の開発につながります。

会社はなんとか持ち直しました。しかし私の心は晴れません。このまま会社を続けていく気持ちがなくなっていたのです。
そこで何か新しいことをはじめて見ようと思い立ち、日々の業務の傍らで、営業とフリーランス、そして経営者の経験を持つ強みを生かし、無料メールマガジン「サイレントセールスのすすめ(現タイトル)」の執筆を開始しました。私は40歳になっていました。

◆自分と同じようなことで悩んでいる営業マンを救いたい

そのメールマガジンはまわりからの評価も高く、多くの営業マンから支持されるようになりました。私としてもそれを書くのはとても楽しい作業でした。悩んでいる営業マンからのアドバイスの依頼を受け始めたのもその頃です。そして運よく出版することもできました。
それから従来の仕事をメンバーに移譲しつつ、自らの営業マン教育やコンサルティング業務を増やしはじめました。

私自身がバブル期より感じていた営業のあり方について疑問を持ち、営業関連の書籍を乱読。時代の変化とともに営業のスタイルも変わらなければならないと、自らの営業理論をかためていきました。また実際に売れない経験と売れる経験をしてきたことで、営業でぶつかりがちな壁や悩みのポイントが見えやすいのも強みだと思っています。それを多くの売れずに悩む営業マンに伝えることが、私の使命です。

現在では、デザインの仕事は一切やめて、サイレントセールストレーナーとして、自らの経験を活かした「内向型営業マン教育」に特化し、講演・セミナー・研修業務を全国で行っています。なかでも独自に考案した「TFTアポ取り手法」と「4ステップ商談法」は、研修やセミナーなどで今でも好評を得ています。

講演先も、三菱東京UFJ銀行、SMBC日興証券、日本生命保険、あいおいニッセイ同和損保、大塚商会、ゆうちょ銀行、NHK、NTTドコモ、凸版印刷などの大手から、商工団体や中小企業など多数からリピートして依頼を受けています。

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同時に、「営業」、「内向型」、「コミュニケーション」、「聞き方・伝え方」などをテーマに本の執筆も精力的に行っています。2017年6月時点で27冊の著書があり、中国、韓国、台湾語などにも翻訳されています。

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また雑誌、テレビ、ラジオからの取材依頼も多く、朝日新聞、東洋経済、週間ダイヤモンド、AERA、SPA!、ビッグトゥモロー、THE21、日経ビジネスアソシエ、など多数。
また、テレビでは「たけしのニッポンのミカタ!」に出演。ラジオではトータス松本さんと対談するなど、各種メディア出演経験もあります。

◆かつての自分からは想像もできない自分へ

あがり症で人前で目立つことを極力さけてきた私。商品説明会であがってしまい、大恥をかいてトラウマになっていた私。そんな私がいまでは1000人以上の前でも平気で話ができるようになりました。近年ではむしろ人前で話すことに楽しささえ感じている自分がいます。
そうなるきっかけを作ってくれたのは「営業」でした。嫌々ながらはじめた営業が、今の私の強力な武器になっているのです。そしてこれは多くの人にも同じことが言えます。営業という仕事は、人にチャンスを与えてくれるのだということを、もっと広く知ってほしいのです。
私はこれからも本やセミナーなどを通してそれを伝えていこうと思っています。

 

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